昭和50年04月10日 月次祭



 御理解 第78節
 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたす(尽くす)ことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

  神様の御心に叶うた信心をさせて頂き、神の機感に叶うた信心をさせて頂きたい。しかもそれが親の代子の代孫の代と三代続いたら、神の機感に叶うた氏子と仰せられてあるのですから、愈々私のさせて頂いておる信心を、日々検討させて頂きながら、焦点を間違えずに稽古に取り組みたいと思います。 それにはどこが焦点でなからなければならないかと言うと、神のおかげを知らぬから互い違いになって来る。先ずは神様のおかげを知らなければならぬ。
 神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事ができると仰せられておられますから、ただその時その場のおかげを受けておれば良いというのではない。神の機感に叶う。中々難しい事の様でありますけれども、それは神様のお心に全部が叶うと言う事は出来ないに致しましても、願いをそこにおいて一歩ずつでもそこへ近づかせて頂くと言う事であります。 先日本郷の安武先生の所の、鹿児島に布教に出ておられます先生が見えられまして。
 色々夜遅うまでお話をさせてもろうたり、聞かして貰ったりした訳なんですけれども。甘木の初代、安武松太郎先生といえば、当時日本一と言われる大徳の先生であり、それこそ日本中の金光教の上に、大変な御比礼を打ち立てられた先生であります。本郷の先生はその二番目の息子さんに当たられる筈ですが、お父さんの御信心について学ばれた訳です。御晩年の頃親先生、金光様の御信心のぎりぎりの所の信心と、金光様の御信心とは、どこをどう頂いたらいいのでしょうかというお伺いをなさったそうです。
 そういう信心を解りたいという姿勢がなからなければ、お伺いになってまいりません。おかげが頂きたい。それにはどういう信心させて頂いたら良いだろうかというお伺いがありますけれども。お願いしてもお願いしてもおかげにならん。どげな信心すればおかげ頂くでしょうかと言う人はあるけれども、御道の信心のぎりぎり根本の所、どこを目当てに、どう信心をさせて頂いたら良いかと言う様な質問をする人は中々ない。親先生も嬉しかったろうと思うですね。
 自分の息子が金光様の信心の一番大切な所を、どこをどうさせて頂いたらと求めて来るのですから、親として師匠としてこんなに嬉しい事はなかろうと思います。それはそのまま天地の親神様のお喜びでもあったろうと思います。だから神様の機感に叶うというのは、そういう願いを立てそれを求め、そしてそれを一分一厘ずつでも、その事に到達して行こうという精進そのものが、神の機感に叶う信心なのです。
  どうすりゃおかげが頂けるじゃろうかと言うのと、全然だためが違う。それを受けられた師匠安武松太郎先生、親である所の松太郎先生も、どの様にか頼もしく嬉しゅう思われた事であろうかと思う。しかもそれは安武松太郎先生が何十年間、血の出る思いで御修行なさって極められた所。これ以外にないと感じられた所。そこをお答えになっておられます。暫く御祈念をなさってから、おもむろに教えられた事は、御神慮を悟る事じゃと。御神慮に添い奉る事じゃと仰ったそうです。
 御神慮をまずは悟らなければならん。神様の御心を知らなければならん。親に孝行をしたいと思うても親の心が分からずしては、親孝行は出来ません。福岡の三代の吉木辰二郎先生が、よくお話になっとられたお話の中に、大変お母さんが熱心な信心をされて、息子さんも段々おかげを頂かれて商売が繁盛して来た。呉服屋をなさっておられる。だから京都へお出でられます。仕入れにお出でられますたんびに、お母さんが喜ばれるような物を色々買うてきなさる。
 着物もそれこそお手の物ですから、良い着物を下しては着させてあげられるけれども、お母さんが一向に喜びなさらん。そこである時です。お母さんもあれだけお歳を取られたのだから、矢張り先祖の御霊様又は仏様をお祭りされる事の様な事に三昧、そう言う事にふけりたいと言う様な気持ちがあられるのかも知れんと言うて、京都で特別な仏壇をしつらえて、それをお土産にされた。所がお母さんがえらい腹かきなさった。
  私がどうして仏壇。こういう金高なもんば買うて来て、今更どうして仏壇を私が拝むかと。親先生にお取次を頂いて私が死んだら、どうでも御霊様にお祭りして下さい。家は本当の改式は出来とらんけれども、私は金光様の御信心によって助けられたのですから、あの世でもやっぱり金光様のお取次を頂いて助かって行きたいとお願いをしておる事を、お前も知ってるじゃないか。今更こんな仏壇をどうして拝むかと言うて、むしろ腹を立てられたという話です。
 家のお母さんばっかりはしょうがない。どがしこどげんしてやったちゃ喜ばっしゃらん。と言うなら、匙を投げ加減であったと言う事です。所がですある大売り出しの時に、それこそ猫の手も借りたと言う様な時に、奥さんにお孫さんが幾人もおられた。その時一番こまかつをいっちょ婆しゃまに預けちこい。隠居所さん連れて行ってから、一時ばっかり見て貰えと言うてその言われたち言う。 それでその赤ちゃんを連れてから、お母さんすみませんけれども、ちょっとお店が忙しゅうございますけん。
 ちよいとすみませんけれども、暫く見とって下さらんかと言うて、連れて行ったら事の他喜ばれたと言う事です。親を大事にすると言う事は隠居所を作ってやったり、立派な仏壇を買うてやった、立派な着物を買うてやったではひとつも喜ばなさらじゃったけれども。何もかにも取り上げて婆しゃまは、なぁにもする事は要らんと言うて、隠居所に押し込めておるような親孝行では喜びなさらなかったけれども、子供を連れて行って暫く見て下さいと言う事には、事の他の喜びであったと言う事からです。
 お婆ちゃんが求めてあったのはここじゃったと、夫婦の者が悟ったというお話でございます。神様に喜んで頂くと言うてもです。毎日お参りをする沢山お供えをする。ただ繁々参ったり、お供えをしたりというだけで、神様が喜んで下さる事でもなからなければ、神の機感に叶うという信心ではないのです。そこで日々お互いがお参りをさせて頂いて、分からせて頂かなければならない事は、神様の御心が解らにゃいけん。御神慮を分からせてもらわなければいけん。その御神慮に対し奉ってそれに沿い奉ろうという、神様の御心に沿い奉ろうという精進をして行くと言う事が、愈々神の喜びであると同時に、神の機感に叶うた信心と言う事になる。
  先日安武先生が言うておられましたが、「御神慮を知り、御神慮を悟り、御神慮に沿い奉ると言う事がまた是はもうきりがない」と言うのですきりがありません。今朝辺りの御理解を頂いておりましてもそれを感じます。ですからそういう遠大な信心なのですから、稽古をせにゃならん、お参りせにゃならんでは長う続かん。稽古をさせて頂いて信心が血に肉になって行くと言う事が有難い、楽しい。
  日田の井手さんではないですけれども、今度御本部参拝の帰りに汽車の中でお知らせを頂いた。春菊のお知らせと、ほうれん草のお知らせを頂いた。ほうれん草も春菊もおひたしに向く所のお野菜ですね。春菊のおひたしほうれん草のおひたし。先生どう言う様な事でしょうかと。それで私は申しました。ここで言われる春菊というのも矢張り菊の一種である。けれどもあれは食用の菊である。合楽の信心のシンボルのように言われる菊の花。自分の心の中に、信心の喜びの菊の花にも似たような心が頂けれる。
  昨日一昨日そこの久保山さんが、毎朝参って見えてからお届けされる中に、先日村内で何かがどこにか行く事があった。けれども私は申しました。私はそげな楽しみやらそういう遊びやらはいっちょん行こうごとなか。そこの金光様にお参りさせて頂くごとなったら、毎日毎日がありがとうして有難うして応えん。有難うして応えんち言いよったら、長年の悩みのリュウマチもおかげを頂き、娘達の縁談の上にも一つ一つおかげを頂いて、万事万端の上に御都合お繰り合わせを頂く。願いもせん事がおかげになる。
 とにかく毎朝お参りをさせて頂いて、一時ではあるけれども心が痺れる様な喜びを感じさして貰う。私はどこにも行かんでんよか、どこどこ温泉にも連れて行って貰わんでよかて、一遍そこの金光様に参ってみなさいと言うて、お話をしたというお届けをなさいました。そこの金光様と言う事はすぐ側の事ですからそこって言われる。そこの金光様にお参りをさせて頂いて、それはひと時ではあるけれども心が痺れる様にある。今日桜井先生の奥さんじゃないですけれども。
 今日の御理解を頂きよったら、体が硬直してしまったち言う。それこそ痺れる以上の喜びです。体が硬直したと今朝の御理解を頂いておると。そういう頂き留め方をです。御神慮を悟ると言う事は、御教えを分からせてもろうて、信心の喜びをもってキャッチするのです。何が幸せと言うてもそれこそ本当に、一日ひと時でもです体が痺れる様な喜びに浸れると言う事は、人間この様な幸せな事はない。
 そういう幸せを日々感じさせて頂くと言う事は、信心が段々身に付いて来たと言う事と同時に、信心が好きになって来た。信心が楽しゅうなって来た。そこで朝の眠さもお金も掛りゃ、時間もかかるけれども。そのくらいの事段じゃない事が段々分かって、信心が続けられて行く。いわゆる神の恩を知らぬから互い違いなって来ると言われるように、神の大恩を分からせて頂いて、何を見ても何を聞いてもどの様な事に直面しても、それを合掌して受けれる心が育って来る。
  お互いが願って願ってやまない。無事達者で子孫も続き身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来るぞと教えて下さる。そういうおかげを皆が願っておるのである。だからそういうおかげを願う前に、私共は神の機感に叶う信心の姿勢を向け直さなければならない。そしてそれが出来てしまわなければというのではない。一歩ずつでもそれこそ一日の内の、そのひと時でも信心の喜びを心に受け止め、それを今日一日の御用の芯ともさせて頂いて、信心生活が段々出来て来る。
 そういうおかげを目指さなければならない。 安武先生のお父さんじゃないですけれども。「親先生、お道の信心の、愈々ギリギリの焦点というたらどこでしょうか。」それは御神慮を悟って、御神慮に沿い奉る事だと教えられたと言う事ですが、御神慮を悟って御神慮に応え奉る信心というのは限りがないのです。その限りのない信心を身に付けさせて頂いて、愈々子孫も続き身代もでき一年勝り代勝りのおかげ、そういう信心が三代続いたら家柄人筋となって、神の機感に叶うたのじゃと教えられるのですから。
 神の機感に叶うた信心を、まずは願い目指さなければならないと言う事でございます。愈々大祭も、あと幾日に控えております。皆さんの手元には案内が来ておるかも知れません。合楽示現活動が言われるようになって、愈々合楽大発展の大みかげを頂く。合楽大発展と言う事は、金光教の発展と言う事であり、世界に和らぎ賀ぶ心の世界を広げて行こうという、世界の助かりに繋がると言う事なのです。
 合楽大発展のおかげを願わせて貰う。合楽示現活動に参画さして貰う。中々至難な事で御座いますけれども。こと御月次祭とか大祭とかと言う様な時には、愈々示現活動がしよい時、少し感心を持っておられるという方達ならば、いついつは大祭で有難いお祭りがありますから、一遍お参りしてご覧なさらんかと。車は家の車に乗って行って頂いてよいですからと言う様な、誘い掛けをなさっておかなければいけない。思わず示現活動が出来る。 自分の近所隣にもです。
 そういう働きかけをなさっておかれて、一人で一人ずつお導きをしてみれば、五百人のお参りがあれば、千人になるわけです。二人ずつお話して見えれば千五百人になる訳です。それがそのまま示現活動となる事でございますから、心懸けさせて頂いて願わして頂き、十三日会には、愈々大祭の準備が、大童になって来る訳でございますけれども、思いを込めての御大祭。同時に一人でも多くの示現活動が出来るような願いを以って、この御大祭を迎えさせて頂きたいと思います。
   どうぞ。